お前は渋谷系だと言ったな、アレは嘘だ。
はい、ちょっと前に渋谷系とは何か、という記事を書いたな、アレは嘘だ。
いやまあすべてが嘘だというつもりはないのですが、単一の定義が出来るという話がそもそも半分以上嘘だって話なんですよね。
まず、「渋谷系」とされているバンドや作曲家に、明らかにルーツが違う出自の人がごっちゃになっているんですよね。
パーフリとかあのへんはネオアコとかニューウェーブの文脈である一方、Cymbalsなんかはパンクを自称しているように、The WHOなんかがルーツにあるわけです。
でもそれが同じ言葉で語られることがあるとすれば、それは何故なのか、というのを僕なりに考えてみたのが前回の記事でした。
ただしそもそも物語の文脈において、ポップさ、面白さ、というのは「裏切り」の一言に集約される部分があると思うんですよ。
正義の味方だから勝つと思ってたら負けたとか、死亡フラグ立てまくってたのに生きてるとか。
その一点に「ポップである」という部分の意味をも見出すならば、渋谷系、というかポップスというものは変化するものでなくてはならない。何故なら、後世の作品がそのリファレンスを「裏切る」ことでポップが成立するわけですから。
だから、厳密に言えば「渋谷系」として作られた曲は最早渋谷系とは言えない、というのが僕の持論なので、自分でそれっぽい曲を作るときは渋谷系を自称しない、単にポップスとかロックとかいう、みたいな面倒なことをするわけです。
ただ、「裏切る」という行為自体、それまでの信頼の積み重ねがあってこそ裏切りたり得るという部分があるわけですから、その受け継がれていく部分としての「渋谷系」っていうのはあるなあと思いながら前回の記事を書いたわけです。
で、僕の最も敬愛するバンド、Cymbals。
その最たるものがこちら。
「ショウビジネスだ」って言いながらショウをやるという裏切り。ディスニーランドに行く大人はみんなミッキーに中の人がいると知ってその上で楽しんでいると思いますが、この場合はもう「中に人がいます」って書いてあるわけです。
渋谷系はやっぱり「全力で気取って」いて、ウソとわかるウソを最高の形で提供してくれていると思うし、それは消費されるエンターテイメントとして自然な形だと思う。「一生一緒にいてくれや」みのような、あけすけな泥臭さ、あるいはそのウソと分かりにくいウソではなく、さりげなくないオシャレだった
— 志賀 (@minami_shiga) 2018年9月7日
志賀さんという友人がツイートでほぼ完璧に語ってくれちゃいましたが、ウソをウソと分かる形で楽しむ。それが渋谷系となっていったわけです。
その文脈でいけば、アイドルとの疑似恋愛っていうのも同じようなところに行き着く気はするんですが、まあこの場合はウソと分かってない人も多いので割愛しましょう。
この曲もそうですけど、全力で気取ってる。全力で気取ってレイバンかけて高速道路をビュンビュン飛ばしてる感じを出している。でもバンドメンバー全員免許がないとインタビューで言っちゃうわけです。
そういう「ハリボテ背負ってるのってダサいけど、オシャレに見せてるだけなんだからオシャレだよね」っていう姿勢が渋谷系たるものをなしているんじゃないかなーなんて思います。
Cymbals解散後、10年ちょい経ってからベースの沖井礼二さんは竹達彩奈さんのプロデュースを始めましたが、「声優」が「歌う」なんてのはもうショウビジネス以外の何物でもない。アニメタイアップでもなければ。
でも良いもの聴けてるんだから良いでしょ?っていう感じがするのが好きなんだと思います。あとやっぱメロディが良いし。