ひとりの麺食いの噺。
午後5時、渋谷にひとりたたずむ男。
遊ぶ約束を終え、皆が次の予定に向かってゆく中、彼は悩んでいた。
「晩飯、どうしよう」と。
凛でポン酢ラーメンを食べるのは簡単だ。しかし今日の彼は新規開拓気分であった。
しかしひとり新しい店を探し求めて歩くには、日曜夜の渋谷の表通りはあまりに明るく、裏通りはあまりに暗い。
寿司屋という択もある。しかし東京の根室花まる、横浜の伊豆、彼らに勝るものを自分の足とスマホだけで探し当てるには、渋谷はあまりに広い。
そうしてハチ公の周りを三回回ってワンということ58回を数えた頃、はたと思いついた。
「そうだ、神名備へ行こう。」
彼は塾講師であった。塾も10年近くいれば生徒とフランクに話すなど朝飯前だ。彼は自らのふくよかな腹が、ラーメンとビールで出来ていることを隠さなかった。そんな彼にいつかある生徒が言った。
「日暮里の神名備は美味しくてチャーシューがメチャクチャうまいよ!メチャクチャ高いけど!」
大人に向かって高いなどと宣うとは、つまりお前の財力などしれている、ということだ。
そんな風に言われて行かずんば、ラーメン食いの名折れである。
しかしそんな彼もすっかり地元密着型になり、都内に出てかつ日暮里でラーメンを食って帰れる日などそうそうはなく、いつか行きたいという気持ちだけが利根川に流れていった。
そして今日、夕飯時にひとりの男である。
今日を逃してはいつ行けようか?あ、シャニマスのリリイベ行くから来週も行けそうだわ。
ともかく!彼は神名備に向かったのである。
神名備、
いや、たしかにこれは高い。
ラーメンとのみ銘打ったものが1000円を超えるとは、相当な挑戦である。
しかしこれは裏を返せば、味に自信を持ってのもの。
そんな期待を胸に向かった午後6時。
支度中
の看板が出ていた。
おかしい、6時はとうに回っているはずなのに……しかも中にはお客さんっぽい人までいるのに……
そう思うも、この手の個人経営が時間通りに開かないなどよくあること。中でカウンターに座っているのも従業員の方だろう。
そう思い、どっしりと待ち椅子に腰を下ろす。
すると、先程から中を覗いては「ダメなのかな……?」という表情を浮かべていた、彼の同類であろう男が一人。
「ダメでしたか?中」
「いや、全然なにも聞いてないです」
「あそうですか、ちょっと中見てきますね」
勇気ある男は店のドアを開けた。「すいません、やってますか?」
「はいはい!何名様ですか?」
普通にやってた。おばちゃんが恥ずかしそうに支度中の札をひっくり返しにきた。
外にいたのは僕だけだったので、僕はそれを代わりにひっくり返した。
勇気ある男は前を譲ってくれようとしたが、彼も恥ずかしかったので勇気ある男に前を譲った。
程なく着席。
醤油ラーメンと塩ラーメンの2択、それぞれ1200円。
チャーシュー麺は売り切れだという。無念。
縦書きのメニューであれば、一番右を頼むのが初来店のセオリーだ。
醤油ラーメンに煮卵を入れる。
今日は何も食べていないし大盛りか……?
メニューをひっくり返すと、あった。
「季節の炊き込みおにぎり」
これだ。腹八分目にギリギリ届かなかったらどうしよう、という不安を払拭してくれる、詰めの一手。迷いなく注文した。
そして着丼。
フライドオニオンの香りが鼻をくすぐる。あまりに和風然とした店構えから、ほんのちょっとした裏切り。
良いだろう。スープを一口。
フライドオニオンと醤油、和と洋のハーモニーに、また違う国の香りが交じる。
これは、八角。
中華料理では定番のスパイスであり、したがって中華そばに入っていてもなんのおかしさもないが……しかしこの取り合わせはどうだ。
すべてが渾然一体となり、全く新しい醤油ラーメンの定義を彼の脳に書き足していく。
熱いスープに浮かぶネギの香りも、一層それを複雑なものにする。
麺は細麺。新しくも優しいスープとの相性は最高だ。
そしてチャーシューである。
この厚みにこのサーモンピンク、誰もが不安を覚えるに違いない。
「固いのではないか」
そんな凡百の人間たる彼は、少し強めにチャーシューを噛む。
全く予期せぬ感触が彼の歯に訪れる。
「ホロリ」と崩れたのだ。
どうやってチャーシューのピンク色を保ったまま、ホロホロになるまで煮込んだというのか?
全く謎は解けないまま、丼の中身は減っていく。
そして季節の炊き込みおにぎりである。
おにぎり?
きっとおにぎりなのだ。
優しい鶏そぼろ入りの炊き込みご飯……おにぎりである。こちらは純粋に和風。
店構えによく馴染む味であった。
熱いスープに厨房に一番近い暑い席、太った男は汗をかく。
そんなとき、おばちゃんが差し出してくれた2杯目の水。
ちょっとした優しさが心に触れ、彼は箸をすすめる。
帰り際、おばちゃんが「札ひっくり返してくれて、有難うございます」と言ってくれた。
大したことではないのに覚えていてくれる、細やかに気の届く店であった。
会計、1500円。高いとは思わなかった。それだけの複雑な味わいのスープは、彼に新たな醤油ラーメンを教えてくれたのだから。
日暮里という街の新たな魅力をまたひとつ見つけた彼の足取りは、いつもより軽く感じた。
そういえば、行きより帰りのほうが早く感じるアレ、リターントリップ効果というらしいですよ。俺はこれがすごくて帰りが半分くらいに感じるんですが、皆さんはどうでしょうかね。